041の散歩

 みんな、他人の日記に興味が無い。正常でよろしい。他人に干渉するべきでないし、こうして胸の内を公に明かすほうも馬鹿。倫理と馬鹿が天秤で釣り合うのは面白いね。わたしはここに、全てを記してはいないけれど、このブログの過去を漁って読めばだいたいわたしがどんな人間か想像できるくらいに、このブログはわたしになってしまった。でもこのブログはわたしから見たらわたしではないこと、それはおわかりいただけますよね?

 わたしとあなたの関係は他人です。『私以外私じゃないの』という有名な曲にもあるように、わたし以外は全て他人です。たとえ血縁関係にあろうと、わたしはわたし以外を他人と思います。家族は家族という名の、友達は友達という名の他人です。もちろんですが、わたしの精神がわたしの肉体から剥がれているのであれば、それも他人です。だから、このブログがわたしの精神と一致していても、このブログの肉体を所有しているのはわたしですから、このブログはわたしではない。スマートフォンやPC等の端末は肉体と呼ぶには機械的ですし、いくらでも複製可能です。複製でき、そして流通するものを肉体と呼ぶには少々抵抗があります。

 人間を名乗る以上は、道徳、倫理に則って生きていかねばならぬのだが、どうしてこんなにも、人を騙すということはやめられないのだろうか。酒やタバコと同じくらい、やめられない。人は本来信じやすい生き物です。疑いは学習の証です。あなたも人間ですが、きちんと人間やってますか?賢く生きることのみに囚われると、徐々に人間から遠ざかっていくというのが、わかるかと。

 これは感情の解剖です。血は出ませんから、あんまりグロテスクではないが、道行く人を引き止めて、開いた傷口を見せ、感想を強要しているみたいなブログです。素通りするのが当たり前でしょう。でもごくたまに、世間は物好きと呼ぶような人もいらっしゃいます。そのような人に出会うとわたしは喜びます。

 他人とわたしが解り合うには、この感情の解剖というプロセスが必須です。どちらかが自らにメスを入れる、または心を開かせるといい相手の感情にメスを入れる、といったふうな。こういうのが嫌いな人とは、どうしたって皮膚レベルの、たとえばマイクロチップが簡単に侵入できる程度の浅いところでの付き合いになるでしょう。

 人間を名乗って生きています。死にたくないと思います。死にたいと言う他人の寿命をいただけるのなら、喉から手が出るほどに…そして感謝をこめて喉から出た手で握手したいとさえ思います。

 このブログを読んでくださる人は物好きというやつで、しかしそれはわたしにとって干渉ではなく、お医者さんごっこに付き合ってくれる『友達』と思っています。『他人』というカテゴリではなく、『わたし』という個人に興味を抱いてくれる『友達』は、ようやくわたしの精神と肉体をぴったりくっつけてくださるのです。

 

 ただいま。