エフ

 日常は、理想とする正方形とは対極にあり、もっと歪な形をしていて、その輪郭は直線でもなければ、際限すらない。彩度や明度を指先で調節することも不可能で、その瞳が受け入れた光の量のみによって、色彩を持つ。見たままの世界の全てが美しいとは限らないが、きっと死ぬ間際には "美しくない" ものの一切は、"思い出" から排除されていく仕組みなんだろう。少なくとも、わたしはそうであると思う。それなのに、生きている今、必死になって "美しい" 日常だけを切り取るということに、路地裏のような湿っぽい虚しさを感じたりしている。そこに、競争を見出そうとするものなら、虚しさは、やがて無駄なものでありながらも永遠に循環していくだろう。

 印象派と括られる絵画や、江ノ島で借りたフィルムカメラ、わたしの中にある光についての概念を揺さぶってきた、崇高な出来事たちのことを思い出した。

 自分を肯定するための策として必要不可欠なものが手に入らぬ気持ちについては、水の中で、切り花を手入れするときのように、少しずつ鋏を入れていく。意図的に枯らすことよりも、そうして生かしておくほうが、きっといい。これは、後味は清々しいほうがいいことと同じだ。