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アート鑑賞入門

今日は青森県立美術館へ「アート鑑賞入門ー楽しみながら自分を育てるー」という講演を聴きに行った。講師は藤田令伊氏。

 

鑑賞の基本は二つあって、「よく『見る』」ことと、「わたしが『見る』」ということだった。

 

同じ言葉が続いてややこしいが、「見る」と「観る」にはやっぱり明確な違いがある。

たとえば視覚的に捉えることと、感情を働かせること。

 

わたしは「観る」ことに意識を集中しすぎていて、「見る」ことができていなかったなと実感した。

 

よく見るコツとして、一つ目に「ディスクリプション(説明)」が挙げられた。

これは、状況を見たまま言葉で表すということだ。まずは自分の感情などは持ち込まないで、ひたすら絵をじっと見ることにする。実際に講演で使われた絵のリンクを貼っておくので、みなさんも見てほしい。

 

http://free-artworks.gatag.net/2013/08/25/070000.html

 

後ろに赤い家がある。草原を手を繋いだ子供たちが走っている。影が後ろに伸びているから、太陽を体の正面から受けているのだろう。一番右端の少年は走り出す少年を止めている。一番左端の少年は転んでいる?のか?

 

この絵は、ウィンスロー・ホーマーという人の「むち打ち」というものらしいが、名前も聞いたことないし、作品も初めて見た。

普段なら、なぜ「むち打ち」なんだ?と思って見るのをやめてしまうかもしれない。

よく見るとなるほど、むち打ちのように、手を繋いだ子供たちが曲線を描いている。左端の少年は遠心力が働いて転んだのではないか、という講師の藤田令伊さんの考察を聞いて、なるほどと納得した。絵が動いたような気持ちになった。

 

「靴を履いていないので、お金持ちの子供ではないのだろう」という小学3年生からの指摘があった。靴を履いていないことにわたしは気がつかなかった。気をつけてよく「見る」ことは、誰でも、いくらでも、できるということだ。他にも何作かを「見」て、会場の人のさまざまなディスクリプションを聞いた。みんな見ているところがばらばらで、一人で鑑賞するよりも発見が多く、おもしろさがぐんと増した。

 

よく「見る」コツの二つ目は、「3分かけて見る」ということだった。

藤田さんは過去に「東京の某美術館で来館者が一つの作品にかける鑑賞の時間をストップウォッチを使って計測する」という実験を行ったそうだ。その結果、平均して30〜40秒で鑑賞をやめ、次の絵に移ったという。

これは、実験の対象となった絵と対象となった人の好みとが関係していて、正確なものとは言えないのではと思ったが、それでも参考としては十分おもしろいと思った。

美術館の静寂の中での3分とは、結構長いものだ。30〜40秒は、自分にも結構当てはまるなと感じた。

時間をかけるということは、それだけ発見が多いということだし、本当に、不思議なことに、徐々に物語が見えてきたり、謎が深まったり、作者が訴えてくる何かが聞こえるような気がして、震えるような感動があった。

 

では、「わたしが『見る』」ということとは何か。

 

一つに、「間違えてもいいこと」と藤田さんはおっしゃった。

間違えてもいいので、よく見ることで自分なりの解釈を持つこと、というようなことだった。ただし、その解釈には根拠が必要である。そして、その根拠はやはりよく「見る」ことで得られるので、観察は鑑賞の礎であると思った。

 

藤田さんがとった学生へのアンケートがおもしろかった。「鑑賞で得られる効果」というものだ。

鑑賞は、主観から始まるのだそうだ。それは、絵を見た(観た)ときに感じる、好きとか嫌いとかの判断である。

そして、他の人の意見や感想を聞いたりして、自分の中の思考を確実なものにしていったり、技法や作者についての知識をつけていく。

そして最終的には主観にまた戻ってくる、というものだった。

だけど、最初に感じた主観と、最後にたどり着いた主観は別のものであって、「知識を踏まえたうえでの」というところが大切だという。

 

「ミツバチが花の蜜を吸い、それを蜂蜜へ変えるように、人間も知識を咀嚼するだけでなく、加工することが必要」という言葉が印象的だった。

知識を身につけることは、鑑賞において大切なことではあるけれど、全てではない。知識をそのまま排出する鑑賞の仕方は、自分の知識と実物を照らし合わせて、合致すると確認するだけの作業になってしまう、ということだった。そのような使われ方をされる知識のことを藤田さんは「借り物の知識」と言った。借り物の知識とは、どこかの誰かが言ったもので、いつかどこかで自分が見聞きしたものにすぎない。終始受け身の知識では、まるで意味がないのだ。

「鑑賞力と詳しいこと(知識があること)はイコールではない」というのは心強い言葉だった。

 

ラファエロの「牧場の聖母」、東山魁夷の「緑響く」、葛飾北斎の「凱風快晴」、モネの「薔薇色のボート」の四枚を見せて、どの絵が一番好きか?という問題があった。みんなそれぞれに挙手したあとに、藤田さんが

「では、質問を変えます。この四枚のうち、お金を払って買うとしたらどの絵にしますか」

とおっしゃった。

わたしは直感的にも、お金を払うのだとしてもモネを選んだが、会場の数人かは意見を変えた。

 

「わたしが『見る』」コツの二つ目は、「買うつもりで見る」ということだった。

 

意見を変えた人は、「好きなのは東山魁夷だけど、リビングに飾るならラファエロ」「東山魁夷の絵は精神性が強いので、毎日見るならモネ」「知名度的には葛飾北斎」という感じだった。

 

このコツは、どこか腑に落ちないような気がして疑問の残るものだったけれど、新たな視点の参考にはなるかもしれない。

 

鑑賞を通して「概念変化」が起きることが理想だという。

それは、自分で何かに気づき、そして自分の何かが変わることだ。発見は自然と意識の変化をもたらすと思うので、ここでも「見る」ことの重要性を再確認する。

 

最後に藤田さんは「鑑賞することで自分の作品になる」とまとめた。

 

 

鑑賞する側の立場で講演を聞いて、これを創作に応用できないものかと考えた。

「見る」ことで鑑賞はとても深いものになった。

ということは、見られたときに発見のないものには、面白みが無いということなのではないか。

 

「見る」ことで、作者が意図していないことさえも鑑賞する側は想像する。それは自由であるし、それこそが鑑賞の醍醐味である。わたしは観察で得られた違和感に意味を付与するのがおもしろかった。

 

「創作のすすめ、鑑賞する側に想像の余地を与えるもの」

 

これが今日の講演を通して、自分なりに考えた答えの一つだ。もちろん、考えることだけが全てではない。わたしは何より経験が浅いから、もっとやるべきことが他にある。

ただ、「見る」ことで鑑賞の楽しさを知ることができたし、「見られる」ことを意識したら、創作のヒントになると思う。

 

「観る」前に「見る」 という基本。

 

では、きっと「創作」の基本は「鑑賞」。

 

今日は、ふらふらしていたのがようやく地に根を張ったような気分だ。