静寂と喧騒と格闘

 絶え間なく嫉妬の水を与え皮肉なほど健やかに育った赤い実を齧る。甘い。この実が赤色に光っているように見えているのはどうやらわたしだけのようで、その他には真っ黒に見えているらしかった。周囲は腐らせた黒い実を喜んで頬張るわたしを気味悪がったが、自分以外は皆他人であるということを思うと、周りからの評価は本当にどうでもいいことだった。これはより楽に生きるための思考整理ではなくて、本能が興味を示さなかっただけであると言ってよい。

 自分が可愛いということは、この裏返しではないと思っている。気づかぬだけでお前は自意識に塗れていると陰で揶揄されていることは知っていた。しかし、憶測に過ぎないくせにやたらと威張っているようなそれを気にするような心の隙をやはりわたしは持ち合わせていなかった。こういう部分が俗に言う「世間一般」と適合できない原因だと知っていながら改めるつもりもなく、かと言ってまったく傷ついていないと言えば嘘になる、厄介な性質の生き物であることまでを自覚していた。この自意識の宇宙の果てを知り尽くしている、しかし実際はその気になっているだけなのである。そしてやはり、それも宇宙の果てより遥か手前にある事象であった。

 

…時間。一対五の休憩室より。

誠意と信仰と自由の芽について

  「わかる人にだけわかればいい」といった類の思念とは、疎外感を味わったことがある者だけが達する境地ではないだろうか。

 自分には理解することができなかった世界からの追放もしくは離脱、その反動をエネルギーとして、自分に対する理解のみを求めることはあまりにも酷だ。その自分だけが守られた世界が、再び誰かの疎外感を生む可能性について知らない。

  わたしの精神がわたしの肉体に覆われ確かなわたしとして輪郭を持つ以上は、他人のそれとの間には必ず矛盾が生じる。二者の間に理解の橋が永遠に構築されないことはむしろ自然である。

 しかし、すべての人間から愛されることは不可能であると知りながら、それでもわたしはすべての人間から愛されようと尽力する生き方を選ぼう。

 

 

 意味や価値をそれぞれが自由に付加することのできる、補うことができるだけの余地をもたらす美がある。

背筋がまっすぐに伸び、正々堂々とした、誰が目にしても圧倒されるような完璧な美がある。

この世の美を構成するものは、この二つしか存在しない。我々は、このうちのいずれかにもれなく当てはまり、時にはこの二つを鮮やかに往来する。

 

 

17%

ああ、気がついたらもうすぐ春だ。最近は眠りすぎなような気がして怠い。目が覚めないのだ。

髪の毛を黒く染めた。もともとは黒かったから昔に戻っただけなのに、違和感があって気持ちが悪い。茶色い髪にするくらいなら黒いほうがましだと思っていたし、そういうふうによく人は言うけれど、実際にやってみたらそんなことはなかった。根元から伸びてくる髪の毛は黒くて、それが本当の自分であるはずなのに、それから逃げるように生活している。

まったく怠惰だ。

最近は西洋絵画を好むようになり、絵の中にある光に心を奪われている。今までは日本の現代美術の中でも、特に前衛的なものが好きだったし、それしか見てこなかった。渋谷駅で誰かを待つふりをして岡本太郎の絵を眺めるのもよかった。ただ、理解の範疇を超えるものには振れなかった。頭を使いたくなかったのだと思う。今は、柔らかい光を見ただけで涙が出るくらいに弱っている。それとも、あの光は強烈な何かなのか。たぶん、後者だろう。

眩しくはないけど確かに明るいのは、夜明けの空だ。わたしが実際に歩いた秋だとそれは5時くらいだった。こんなふうに穏やかでいたいと思ったけど、帰り道でHOPEの空箱がぺちゃんこになって落ちていて、それが誰かの抜け殻だと思うと、焦燥感が夜と朝の境界線を濃く描いて、眩しい太陽の下をうつむきながら歩く羽目になった。

もしこの人生でひとつだけ思い通りにならないことがあるとするならば、いやこの話はやめておこう。

食後の皿を拭いていた。生きることが突然無意味に思えて、反対に自ら命を絶つことの意味のほうがはっきりと輪郭を持ってわたしの前に現れた。

どうでもいいことだらけの今までが、ああ、やっぱりどうでもよかったのだ。

眠る。

 

アート鑑賞入門

今日は青森県立美術館へ「アート鑑賞入門ー楽しみながら自分を育てるー」という講演を聴きに行った。講師は藤田令伊氏。

 

鑑賞の基本は二つあって、「よく『見る』」ことと、「わたしが『見る』」ということだった。

 

同じ言葉が続いてややこしいが、「見る」と「観る」にはやっぱり明確な違いがある。

たとえば視覚的に捉えることと、感情を働かせること。

 

わたしは「観る」ことに意識を集中しすぎていて、「見る」ことができていなかったなと実感した。

 

よく見るコツとして、一つ目に「ディスクリプション(説明)」が挙げられた。

これは、状況を見たまま言葉で表すということだ。まずは自分の感情などは持ち込まないで、ひたすら絵をじっと見ることにする。実際に講演で使われた絵のリンクを貼っておくので、みなさんも見てほしい。

 

http://free-artworks.gatag.net/2013/08/25/070000.html

 

後ろに赤い家がある。草原を手を繋いだ子供たちが走っている。影が後ろに伸びているから、太陽を体の正面から受けているのだろう。一番右端の少年は走り出す少年を止めている。一番左端の少年は転んでいる?のか?

 

この絵は、ウィンスロー・ホーマーという人の「むち打ち」というものらしいが、名前も聞いたことないし、作品も初めて見た。

普段なら、なぜ「むち打ち」なんだ?と思って見るのをやめてしまうかもしれない。

よく見るとなるほど、むち打ちのように、手を繋いだ子供たちが曲線を描いている。左端の少年は遠心力が働いて転んだのではないか、という講師の藤田令伊さんの考察を聞いて、なるほどと納得した。絵が動いたような気持ちになった。

 

「靴を履いていないので、お金持ちの子供ではないのだろう」という小学3年生からの指摘があった。靴を履いていないことにわたしは気がつかなかった。気をつけてよく「見る」ことは、誰でも、いくらでも、できるということだ。他にも何作かを「見」て、会場の人のさまざまなディスクリプションを聞いた。みんな見ているところがばらばらで、一人で鑑賞するよりも発見が多く、おもしろさがぐんと増した。

 

よく「見る」コツの二つ目は、「3分かけて見る」ということだった。

藤田さんは過去に「東京の某美術館で来館者が一つの作品にかける鑑賞の時間をストップウォッチを使って計測する」という実験を行ったそうだ。その結果、平均して30〜40秒で鑑賞をやめ、次の絵に移ったという。

これは、実験の対象となった絵と対象となった人の好みとが関係していて、正確なものとは言えないのではと思ったが、それでも参考としては十分おもしろいと思った。

美術館の静寂の中での3分とは、結構長いものだ。30〜40秒は、自分にも結構当てはまるなと感じた。

時間をかけるということは、それだけ発見が多いということだし、本当に、不思議なことに、徐々に物語が見えてきたり、謎が深まったり、作者が訴えてくる何かが聞こえるような気がして、震えるような感動があった。

 

では、「わたしが『見る』」ということとは何か。

 

一つに、「間違えてもいいこと」と藤田さんはおっしゃった。

間違えてもいいので、よく見ることで自分なりの解釈を持つこと、というようなことだった。ただし、その解釈には根拠が必要である。そして、その根拠はやはりよく「見る」ことで得られるので、観察は鑑賞の礎であると思った。

 

藤田さんがとった学生へのアンケートがおもしろかった。「鑑賞で得られる効果」というものだ。

鑑賞は、主観から始まるのだそうだ。それは、絵を見た(観た)ときに感じる、好きとか嫌いとかの判断である。

そして、他の人の意見や感想を聞いたりして、自分の中の思考を確実なものにしていったり、技法や作者についての知識をつけていく。

そして最終的には主観にまた戻ってくる、というものだった。

だけど、最初に感じた主観と、最後にたどり着いた主観は別のものであって、「知識を踏まえたうえでの」というところが大切だという。

 

「ミツバチが花の蜜を吸い、それを蜂蜜へ変えるように、人間も知識を咀嚼するだけでなく、加工することが必要」という言葉が印象的だった。

知識を身につけることは、鑑賞において大切なことではあるけれど、全てではない。知識をそのまま排出する鑑賞の仕方は、自分の知識と実物を照らし合わせて、合致すると確認するだけの作業になってしまう、ということだった。そのような使われ方をされる知識のことを藤田さんは「借り物の知識」と言った。借り物の知識とは、どこかの誰かが言ったもので、いつかどこかで自分が見聞きしたものにすぎない。終始受け身の知識では、まるで意味がないのだ。

「鑑賞力と詳しいこと(知識があること)はイコールではない」というのは心強い言葉だった。

 

ラファエロの「牧場の聖母」、東山魁夷の「緑響く」、葛飾北斎の「凱風快晴」、モネの「薔薇色のボート」の四枚を見せて、どの絵が一番好きか?という問題があった。みんなそれぞれに挙手したあとに、藤田さんが

「では、質問を変えます。この四枚のうち、お金を払って買うとしたらどの絵にしますか」

とおっしゃった。

わたしは直感的にも、お金を払うのだとしてもモネを選んだが、会場の数人かは意見を変えた。

 

「わたしが『見る』」コツの二つ目は、「買うつもりで見る」ということだった。

 

意見を変えた人は、「好きなのは東山魁夷だけど、リビングに飾るならラファエロ」「東山魁夷の絵は精神性が強いので、毎日見るならモネ」「知名度的には葛飾北斎」という感じだった。

 

このコツは、どこか腑に落ちないような気がして疑問の残るものだったけれど、新たな視点の参考にはなるかもしれない。

 

鑑賞を通して「概念変化」が起きることが理想だという。

それは、自分で何かに気づき、そして自分の何かが変わることだ。発見は自然と意識の変化をもたらすと思うので、ここでも「見る」ことの重要性を再確認する。

 

最後に藤田さんは「鑑賞することで自分の作品になる」とまとめた。

 

 

鑑賞する側の立場で講演を聞いて、これを創作に応用できないものかと考えた。

「見る」ことで鑑賞はとても深いものになった。

ということは、見られたときに発見のないものには、面白みが無いということなのではないか。

 

「見る」ことで、作者が意図していないことさえも鑑賞する側は想像する。それは自由であるし、それこそが鑑賞の醍醐味である。わたしは観察で得られた違和感に意味を付与するのがおもしろかった。

 

「創作のすすめ、鑑賞する側に想像の余地を与えるもの」

 

これが今日の講演を通して、自分なりに考えた答えの一つだ。もちろん、考えることだけが全てではない。わたしは何より経験が浅いから、もっとやるべきことが他にある。

ただ、「見る」ことで鑑賞の楽しさを知ることができたし、「見られる」ことを意識したら、創作のヒントになると思う。

 

「観る」前に「見る」 という基本。

 

では、きっと「創作」の基本は「鑑賞」。

 

今日は、ふらふらしていたのがようやく地に根を張ったような気分だ。

 

 

 

 

成長していないいないばあ

幼稚園のころ、大人を震撼させた経験がある。お店やさんごっこの準備の時間、わたしのいたグループが画用紙を独り占めして、みんなの前に立たされたのだ。先生が「なにか言うことは?」と聞いたが、誰も口を開かなかった。みんなの前に立たされているのだ、それも不名誉なことで。隣を見たがみんなうつむいていた。先生はわたしたちが謝るのを待ってくれていた。沈黙を切り裂いたのはわたしである。

 

「ありがとう」

「は?」

 

幼稚園の先生が「は?」なんて言ってはいけないのではないか。せめて「え?」くらいにしてほしかった。

 

 

「違うでしょう。こういうときは、ありがとうじゃないよ」

「ああ、そっか。ありがとうございます」

 

安心したようにグループの子たちもわたしに続いて次々に「ありがとうございます」と言って深々と頭を下げた。体育座りしていたみんなは洗脳されたように拍手をした。

 

「…こういうとき、悪いことをしたときは、ごめんなさいと謝るのです」

 

たぶん先生はそんなことを言った。このままだとこの教室にいる全員がヤバい大人になってしまう。先生はさぞ慌てたことだろう。ごめんなさいと言うべき場面でありがとうと言うとは、ほとんどサイコパスではないか。

 

一方わたしは罪の意識がなかった。言われてはじめて、「あ、悪いことをしてたんだ」と気がつくのだった。そんなのわかってたら、はじめからちゃんと謝るよ。とさえ思っていた。

わたしがありがとうと言ったのは、「みんな何も言わず画用紙を使わせてくれてありがとう」という意味だった。独裁者もいいとこだよ。ジャイアンかよ。

 

画用紙を独り占めして作ったカラフルなフェイスパックは、お店やさんごっこで大好評だった。わたしたちのお化粧やさんはその騒ぎもあり大繁盛した。幼稚園児にして炎上商法を身につけたのである。

 

そういえば別の日に、園長先生が握ってくれたおにぎりを、園長先生の前で「べちゃべちゃしてて不味い」と言ったこともあるし、スーパーへ友人と買い物に来ていた先生に会ったときは「先生にも友達っていたんだね」とも言った。

 

罪の意識があれば、はじめからちゃんと謝るよ。

20歳を前に、今も相変わらず罪に対するセンサーが鈍い。一刻も早く直さねば。

 

 

 

 

 

 

 

慢性的な憂いも作り笑いも要らないある一点から

他人の幸福と不幸を観察していたら、偶然なんてものは存在しないのだと思わされた。かと言ってわたしたちを取り巻くものの全てを必然と呼ぶにはあまりにも力無い。二つで世に蔓延る事象を量ろうとすること自体がそもそもの間違いであることに、その瞬間すでに気づいてはいるのだけれど、それでも諦めがつかないことはやはり自分の悪いところだろう。

 

・・・

 

人は事実を前に一喜一憂する。

 

どんな人も、嬉しいことがあれば喜ぶし悲しいことがあれば泣く。当たり前だけれど、こんなことが当たり前だということに腹がたつ。笑ってはいけないし、泣いてもいけないような、どうしようもない瞬間がわたしにはあるからだ。他人にそれを強要してしまいそうな、もっとも恐ろしい感情が芽生えたら、それが枯れるのをじっと待つこと以外にわたしには術が無い。根を断つことはわたしにはできないので永遠に解決しない。

 

苦しみを引きずりながら歩くことができる距離なんて、たかが知れている。たぶん、笑っているときは立ち止まり何かに寄り添っているときだろう。わたしは崖を滑落していくというよりは、一通りの絶望を歩き回ったところでのたれ死ぬのだと思う。

 

幸福と不幸に左右される自分の浅はかさが憎くてたまらない。昨夜涙が尽きるほど泣き、空が白むにつれて浄化され、しまいには陽の下で平気で笑っている奴の気が知れない。そんなの恥だ。狂っているのではないかとさえ思う。ただ、わたしが狂っていると感じるこの人間の摂理こそが当たり前で、わたしも当たり前のように狂っている。

 

・・・

 

君があの日絶望したのは、君が今日笑っているからである。

 

そんなふうに、時間は捻れつつもある地点に回帰している。偶然なんてものは無い。

 

 

 

 

 

 

 

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 淘汰された宇宙、塵ですら摩擦で光を帯び地上から見上げれば尊い一瞬の星となるにも関わらず、我々の日々が進行していくスピードはあまりにも遅く、燻るだけの己の生活にそろそろ嫌気がさしてきて、未だ正気を失っていない自分自身への安堵と、狂うにも狂えない腹の底が空腹の悲鳴を上げていることの惨めさ、この惨めさで腹がいっぱいになれば良いのだが、何かしらの生命を殺さねば満たされぬ事実を六畳一間の窓から嘆く、さて今日は駅前の雑踏で幾つの眼球とすれ違ったか、いつから自分が分裂していったかわからない、自らの歴史を自らが把握していないことに一切の焦りは無い、河川敷で叫んだ声は橋の上を通過する電車に轢かれた、それで良かった間違いなどその瞬間に一つも起こっていなかった、淘汰された宇宙、それは