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課金ゲーを生きる人の不毛な持論

 スマホゲームなどにより、『課金』が一般的になった時代で、常にそのシステムについて賛否両論が繰り広げられているけれど、不毛な論争だなと思いつつそれを眺めている。

 

 わたしは以前、給付型奨学金に反対した金持ちの議員に腹を立てて、『教育は課金ゲーではない』というタイトルで、このブログにとある記事を書こうとしたことがある。けど、やめた。

 要約すると『金があれば塾にだって通えるし、それで大学に進学できるし、結局金じゃん!裕福な家のガキずるい!』みたいな内容だった。公開しなくて正解である。ただの妬みでしかないのだから。(日頃からただの妬みを公開しまくっているブログではあるけれど)

 実際に、親の収入と子の学力の関係には一定の法則があって、言うまでもなく裕福な家庭の子供のほうが学力が高い。文部科学省のホームページにはいろいろな統計が載っているので、興味がある人は見てみてください。

 「うるせえ!貧乏でも勉強するやつはするし、金持ちでも勉強しないやつはしないだろ!」

 まっとうな意見である。だから公開するのをやめた。それで、この話は終わった。

 

 でも、『その人次第』という言葉は大正解なのだけれど、使いすぎるとどうなっちゃうんだろうね。これも、その人次第か?

 

 わたしはスマホゲームをしないので、課金もしない。

 だけど、CDを買ったり、本を買ったりはする。服も買う。美術館とかに行く。美味しいものを食べる。映画は月額料金を払ってアプリで観ているので、課金しているな、という感覚がある。

 最低限の生活には、これらは必要がない。別にお店のご飯じゃなくたって、140円くらいのカップラーメンでもやっていけるし、服だって機能を果たしていれば見た目なんてどうだっていいのである。

 だけど、わたしたちはそれを選ばずに、各々の生活に、人生に、課金し続けている。なぜならば、人はより良いほうを望むから。より良い人生には、これらが必要だと判断しているから。そこには個人の意思があり、正しいお金の回り方も同時に起こっていると思う。

 

 「この歌めっちゃ好き〜、世界でいちばん好き〜、好き好き〜♡」

 たとえば、そう言う人がいたとする。愛だ。素晴らしい。だけど、もしもその人がどこかの国のインチキアプリを使って違法ダウンロードしているのだとしたら、正直に言うとお前のイヤホン引きちぎりたい。罪悪感を感じていないのならば、二度と聞けないようにしてやりたい。

 YouTubeなどで公式が音源とかをアップしたりしている。それを観る。聴く。そして、もう我慢ができなくなって、手に入れたくなって、気づいたらポチってたりお店に向かったりとかしないのかな。「フルサイズで載せろ!」って、怒る人もいるくらいだしなあ。

 Apple Musicは月額980円で音楽が聴き放題という恐ろしいほどに最高のコスパで、わたしも今月から使っている。新しい音楽との出会いを求めて使っているような気になっているけど、実際はわたしもそこで満足している、というのが正しいと思う。いつか買います!みたいなのじゃ、きっとずっと買わないだろうなあ。

 映画に関しては、過去のものはリバイバル上映しない限り、DVDとかアプリとかでしか観ることができない。もちろん、過去作を振り返ることができる点がそれらのメリットではある。だけど、わたしは今観たいものを探して、できるだけ劇場で観るように心がけている。これも今月から始めたばかりだけど。たしかにレンタルよりもお金はかかる。でも、わたしは意識を変えるためにこれが良策なのではないかと考えた。DVDが映画鑑賞にもっとも適している方法ならば、映画館はとっくの昔に全滅しているはずだ。

 

 課金することを正義と言いたいのではないけれど、せめて好きと思ったものにはお金を払えばいいのに、いったい他にいつどこでお金を使うんだろう?と疑問に思う。「金の使い方なんて人の勝手だろ!」これもまた正論。(本当はわたしは正論って認めたくないんだけど)

 その人次第。人それぞれ。たしかに。

 でも、ゲームじゃなくて、人生ばかりは、どこまでも無料で楽しむってわけにも、いかないと、思ってしまうんだよなあ。どんな人にもお金を払うべきシーンがあり、はたして自分はそれを理解できているかどうか。

 

 なんだか軽い言葉ではあるけれど、人は自分の感性を豊かにするために、日頃からより良い人生のために課金しているということだ。このままいくと自分、めちゃくちゃ強いやつになるのではないかと淡い期待を寄せてしまう。実際はそんなことないと思うけれど、わたしは今のところ自分の選択に自信がある。

 

 わたしは課金体質だ。気がつくと賛成派の椅子に座っている。

幸福なフープ・ループ

 18歳の誕生日に、大好きな友達が歌集を贈ってくれたことがきっかけで、穂村弘が好きになった。そのあと、過去にハルカトミユキのハルカさんが穂村弘と対談している記事をたまたまネットで見つけた。穂村弘のエッセイの最新作の解説も、ハルカさんが寄稿している。ハルカトミユキは、わたしがいちばん好きな歌を歌う人たち。

 ハルカトミユキが日比谷野外音楽堂でライブをした。会場の入り口には、親交の深いバンドとか、レコード会社から贈られたお花が飾ってあった。その中に、『ピース 又吉直樹』の名前が突き刺さった真っ赤なお花があった。以前、ハルカさんがライブで着ていた真っ赤なドレスを思い出した。ピース又吉は、わたしがいちばん尊敬しているお笑い芸人。

 ピース又吉がオススメしていたので、西加奈子の『漁港の肉子ちゃん』という小説を買って読んだ。それから、西加奈子が好きになった。

 そんな西加奈子が、『ダイオウイカは知らないでしょう』という短歌の本を出していることを知った。それは、せきしろさんという方との共著だった。せきしろさん。ん?わたしの部屋に、せきしろさんの本あるぞ。せきしろさんとピース又吉の共著『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』は、わたしがいちばん好きな本だ。

 もちろん、『ダイオウイカは知らないでしょう』を買って読んだ。その中で、穂村弘が短歌の講評をしていた。

 わたしの部屋の壁には寺山修司の写真とお面が貼ってある。高校1年生のとき、美術室に寺山修司の写真と言葉が貼ってあったことがきっかけで好きになった。寺山修司は、ハルカさんが尊敬している人で、『書を捨てよ、町へ出よう』という舞台では、ピース又吉穂村弘が映像出演していた。

 その舞台の特集が組まれた『文學界(2016年3月号)』をどうしても見せたくて、以前わたしに歌集をプレゼントしてくれた友達の家に持っていった。彼女は、ボロボロに読み込まれた本を手にわたしを出迎えた。

「これ、ズーちゃんに見せたいと思ってたんだ!」

 わたしたちは本を放り投げて手を空っぽにして笑った。床に二冊、どぎついピンク色の表紙の、『文學界2016年3月号』。

 出来すぎた話のようで、事実である。

 

 

…果てがない。

 

 

 どこへ行ってみても、登場してくる名前名前名前。わたしが今いるここは、一つの輪の中であることに気づく。

 円と輪の違いがわたしの中で曖昧だから、自分なりにここでの意味を定義する。輪には、コミュニティがある。生気がある。たぶんこれは、円にはない。なんとなく円のほうが人との関わりという視点からでも平面的な感じがする。その違い。難しい。

 わたしの周りをぐるりと囲んで、守ってくれているようなもの。憧れと尊敬という一定の距離を保って、わたしの周りにあるもの。わたしの好きなものって、わたしの向こう側で自然と繋がっているんだ。

 もちろん、この輪はまだ完全じゃない。わたしには知らないことが多すぎるし、知りたいことも多すぎる。知るということで輪が大きくなるというよりは、輪を形成している線の密度が濃くなるという感じか。知れば知るほど、点が線になるというか。

 鉛筆の濃さで例えたほうがわかりやすいかな。もっと感性を磨いたら、今は4Hのカッチカチの薄い鉛筆でも、いつかは6Bくらいの柔和かつ力強い濃さになるかもしれない。いや、いろんな鉛筆を手に入れて、濃淡までつけられるようになるかも。

 

 目標に『 "輪" の円周になる』と書き足しておいた。これはきっと人生の最終目標だ。算数で習ったような気がするけど、公式って、通用するのかな。そんな易しい問題じゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自意識過剰日誌

 喫茶店でレモンティーを注文した。出先では、気がつくと毎回レモンティーを飲んでいる。理由はコーヒーが飲めないからだけれど、本当は紅茶もあまり好きではない。

 それならば、ミルクセーキとか、クリームソーダとか、レモンスカッシュとか、とにかくコーヒーと紅茶以外ならばなんでもよいのだけれど、メニューの上のそんな文字は、不思議なことにわたしの目にはまったく入らないのだ。

 コーヒーが飲めるというだけで、わたしの中でその人の株が急上昇する。東証一部上場だ。紅茶なら、二部か。そう、とってもくだらないのだ。

 輪切りのレモンを紅茶に浮かべるとき、うまくバランスが取れなくて、まわりの人にバレないようにこっそり指を使ってスプーンに乗せた。自分のこういうところが嫌い。とてつもなくダサい。虚しさが高田馬場を走る山手線を追い越した。

 本来ならば美味しいはずの紅茶を下手くそに啜っているとき、紅茶の上のレモンと目が合った。黄色い声で笑われているような気持ちになって、店の隅の席でさらに小さくなってしまう。

 「ミルクセーキで」

「クリームソーダ」

「じゃあレモンスカッシュを一つ」

 わたしもそれが、飲みたかったな。

 他人の声で今さらメニューの上の文字が浮かび上がって、カップの中に残ったレモンとまた目が合う。嘲笑が聞こえる前に、スプーンでレモンをひと突きしてから店を出た。妙に勝ち誇った気分のあとで、虚しさが山手線を300周した。

 

 

発見のための、思考の整理

わたしは評価されたいし、そういう気持ちがないと。

 

このブログをいろんな人に読んで欲しいと思っているし、きちんと相応の評価を受けたいと思って書いている。

そのためには、もっと真剣に取り組むべきだということも承知している。今はまだまだ気持ちに実力が追いついていない。

批判を受け入れられない人が他人から意見を求めてはいけない、とも思う。

 

わたしは同情されたくて生きているわけではない。

インターネットを通じて似たような感性の人を容易に集められる時代の中で、そんなものに価値はあるのかな。

群れることを悪いとは言わないけれど、まるでコピペしたみたいな仲間を作ることには疑問を感じている。

クローンは、模倣を続けるか、創造を遂げるか。

 

理想がない。

絵は習えば上手くなってしまうことが悲しい。絵だけじゃなく、いろいろなものがそうだな。そういうふうな目で見てしまうと、なにもかもがつまらない。

今わたしは、いったい何がしたいんだろう。

 

明日、深夜バスに乗って東京へ行く。

きっとそこで、落ち込む暇もないほどに圧倒されて、すれ違う人との摩擦で目が覚めて、ここで評価されたいと思うんだろうな。そのための方法すら未だわかっていないのに。

 

ライブハウスで歌う人を、スクリーンの中で演じる人を、そこで生活する人たちの姿を、わたしは見る。

スマートフォンの画面をぬるぬると上下するフィクションではなくて、実体を見る。

クローンのわたしは、いつかの創造のために。

 

 

2017.2/9

2016.3/14
通りがけの道に、わたしが嫌いな女が好きな花が咲いていたのはもう1週間も前のことになるが、あの鮮烈な黄色が未だに頭から離れない。ミモザ

あの花がわたしの中で枯れないのは、こうして彼女に対して常に思いを巡らせているからで、それが花にとっての「水」のようなものになっているからであるとなんとなく解釈している。

嫌いであればあるほど知りたくなるし、知れば知るほど嫌いになる。無関心でいることは、じつはとても難しいことなのだ、ということを、本当は誰もがわかっている。

花畑が必ずしも平和だとは限らないのだ。

 

・・・

 

2017.2/9

まだ枯れていないよ。人として、成長してください。

 

逃げの日記

物事の本質をしっかり見極められる眼を持ちたいとわたしは思っている。

 

鑑賞した映画や音楽の数が多ければいい、というような問題ではない。そんな誰かの見栄のために作られた芸術作品はおそらく存在しない。

 

わたしたちは、聞こえざる思想に耳を傾けなければならない。

『芸術』と括られる形あるものに眼を凝らし、さらに遡ってみなければ。

 

これまで直感を大事にしてきたけれど、芸術に触れるとき、人は考えることからは逃れられないのだ、と思う。

 

 

一緒に大きな絵を観たとき、友達は泣いていたっけ。あの子は自分なりの解釈をわたしに伝えてくれた。わたしが思っていたものとは違った。それでよかったのだ。よかったのに、わたしは言い出せず、わからないふりをした。

演劇の感想を求められても、わたしは「おもしろかった」としか言えなかった。わたしにはわからなかった。否、わかろうとしなかったのだ。

 

 

 

怠惰な毎日を作り出すのはいつも自分自身でしかないな。明日からはもっと丁寧に生きよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

死にたいと漏らす声があるうちに

 坂口安吾の『不良少年とキリスト』より、わたしの好きな一節を引用する。

 

 生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみせなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。

 

 そして彼は、人はよりよく生きるほかない、とも言う。本当にそうだ。その通りだ。

 

 これまでわたしは絶望に寄り添ってくれる陰湿な言葉ばかりを探してきた。同情も慰めも、絶望から抜け出すための光に見えたが、今は違う。

  わたしたちは、生まれた以上は生きる以外に選択肢はなく、生きる以上はよりよく生きる以外に選択肢はない。

 

 

 死にたいと漏らす声があるうちに、今は亡き人らの声を聞け。