(ただの愚痴)

 バイトに行く途中に先輩に会ったのでイヤホン外して「おはようございます」って言ったら無視された。わたしだってあなたのこと好きじゃないですよ。でも、挨拶はするでしょ。なにを勘違いしてるのか知らないけど、わたしより大人なんだから、それくらいはわかったほうがいい。休憩に入るときに「疲れたー」って大きな声で言うところや、お客さんの悪口ばっかり言うところが嫌いだ。あと話がぜんぜんおもしろくない。仕事はできるかもしれないけど、まったく尊敬できない。わたしに冷たい態度をとるのも、まあこういう人なんだろうなって流してたけど、挨拶を無視されたのはさすがに腹が立って、舌打ちしてしまったわたしもかなりガキだな。猛省。先輩が通り過ぎたあと、何回も舌打ちの音量を確かめた。「たぶん聞こえてないよな…」とか思いながらもう二度と舌打ちしないと決めた。「KAT-TUNのReal Faceを聞いていたんです」とか言い訳も考えたけど、舌打ちはやっぱりだめだな。

紙みたいな

 岩井俊二監督の映画『リリイ・シュシュのすべて』にも使われているクロード・ドビュッシー作曲の『アラベスク 第1番』(聞けばわかる)を聴いている。(クロード、というのはモネと同じなのでフランス人に多いのだな、覚えておこうと思った)

 ついさっき、浅野いにおの『うみべの女の子』を読んだ。はっきり言って、「これを読んでいったい何になるんだろう」って感想だ。

 四年くらい前に、今は潰れた駅前のヴィレッジヴァンガードで買った。『サブカル』というワードに敏感だった頃だ。

 当時はエロい描写が多くて股がキュンキュンする漫画だなくらいにしか思っていなかったけど、今読み返してみると、小梅ちゃんも磯部も大勢のDQNも、みんな人として終わっていて、マジで人間嫌いになりそうだった。こんな奴らに感情移入するほど自分は腐ってねえと思いたかった。でも、腹が立つのは、磯部が言ってることが正しい(わたしが信じている正解に近い、というニュアンスで正しいという言葉を選んだ)からだとも思う。最後の小梅ちゃんと磯部のシーンとか、心しわくちゃになった。あまりにも小梅ちゃん自分勝手すぎるし、磯部はたしかに怖かった。

 『リリイ・シュシュのすべて』は一度しか観たことがないけど、後味は悪かった。この映画を観てスッキリしなかったあたり、まだ自分はまともなんだなと、そう思うしか救いが見つからないような映画だと思っている。まだ10代であんな役を演じた市原隼人とか蒼井優とか、今も役者として過ごしているわけだし、役者すごいなとしか言いようがない。

 『リリイ〜』にしろ『うみべ〜』にしろ、やけに綺麗な絵とか映像とか音楽で、汚いけどリアルな世界を見せてくるのが怖い。笑いながら殺してくる奴みたいな、そんな狂気が狙いなのかもしれないけど。あと、インターネットが絡むとクソだなと思った。

 

 

 自分が良い方向に変わることで、誰かを傷つけていることにはわたしも気づいているし、果たしてそれは本当にいいことなんだろうかとも思うし、遠回しに「前の方がよかった」と言われたような気もする。

 『サブカル』という言葉にとらわれて、ちんこみてえな頭にしたときもあったし、意味わからないことばっかり言ってた(今も?)し、リュックにいっぱい缶バッジついてたし、ベッキーと不倫した人の歌とか聴いてたし、今思うとそういうクソダサかった頃のわたしには死んでも戻りたくないし、まあ死んでも戻れないんですけど。

 視界良好なショートカットでこのブログ書いてトートバッグで出勤して"音楽"を聴いてます。

 幻覚を見る、あなたがそれが良いならそれで良い。薬を飲めとは言えないし、わたしが嫌いなわたしを好きだと言われても、あんまり嬉しくないけど、わたしはリアルタイムで好きだし。片思いでいいです。

 

 

 明日からは雨らしいし、ジメジメするんだろうな。紫陽花は、枯れかけの頃がいちばん美しいと思ってます。

 

 

 

 

L

 別れ話を切り出されても自分、「そっか。わかった」とあっさり受け入れるタイプだな、って昨日の電話で思った。「残念だけど、そう思うなら、そっちの気持ちを尊重するよ」だなんて、空洞です。「止めてくれないの?」って言われたら、冷めるし、なんかもう、わけわかんないな。

305

 毎日アクセスしてくださってる方々、どうもありがとーございます。でも、毎日更新していなくてすみません。いや、すみませんってのはなんか違う気もするんですが、えーと、すみません。

 

 コンビニの夜勤って、なんであんなに、コレデモカッ!というほど皆さん怠そうなんですかねー 仕事じゃん。自分でやるって決めたくせに、怠そうにやってんじゃねーよ。って思いました。でも、きのう行ったセブンイレブンの夜勤のおばさんは、ものすごく丁寧にブラックサンダーアイスのバーコードの上にシール貼ってくれた。お行儀悪く食べながら歩いて帰りましたが、溶けてしまって、ほとんど、ぼったぼった落としてしまった。今日は朝から雨だったので、アイス、流されてしまったかな。おばさん、ごめんね。それと、みなさん、道路にアイス落として、そのまま帰ってすみませんでした。

 

 変わりたいだとか、幸せになりたいとか、みんなそろそろうるさい。どこに行ってもだめだと感じてしまうのは、自分が変わらないからって、少しは考えたことある?考えるだけでは、だめだけど。与えない人が、求めてんじゃねーよ。口開けて、「あーん」って、ママがスプーンですくってくれたご飯、待ってるだけかよ。

 まだ起きてないことについて心配することほど、無駄なことって、ないですよ。そのくせ、死んだことないのに、死にたがる。「今のままでいいんだよー」「えらいねー よしよし」って、してくれる人"だけ"が、優しいと思うなよ。同情されたいだけの人間が、ほんっとうに嫌いだ。うるせえな。あー。

 わたしはご覧のとおり、優しくないし、間違っているかもしれないですけど、この世には、正しいことを言っている人もいます。理解する心と耳と頭と目だって必要です。 自分と意見が違えば、それはまちがいなんですか?それなら、誰にも意見なんか求めんな。答え合わせしたいだけなら、公文行って、ドリルやって、丸つけしてもらえ。丸いっぱいもらえるぞ。

 わたしは、変わろうとしない人の相手はしません。もう、そんなやつが努力について語るな。生きてるだけで偉いなんて言う人もいるけど、もしそれが本当なら、一生懸命やってる人は、どーなっちゃうんだよ。甘ったれんな、チクショー。よく、「わたしが苦しいのとお前が苦しいのは関係ない」みたいなツイートを見かける。みんな共感してるから、リツイートしたんだろうなあと思う。

 わたし「は?」

 他人と比べるから、文句が出るんだろ。自分より不幸な人を探したことあるか?やってみろよ、つっても、やらないでしょ?本当に、周りを言い訳にしたいなら、どん底を見てこい。ちょうどいい敵を、わざわざ見つけてきてんじゃねーよ。せこいんだよ。わたしは、もう言い訳をしない。言い訳なんて、できないからだ。

 過去は変えられないと思ってるんですか。本でも読んでみたらどうですか?音楽を聞きに、ライブハウスとかに行ってみたらどうですか?CD聴きながら、散歩でもいいけど。なんにもやらないくせに、なにかが変わるわけないだろう。

 ちなみに、わたしは、人と話すのが嫌いだと思っていたけど、そんなことなかった。人の話を聞くのが好きだし、わたしの話を聞いてもらうのも好きだった。誰かが笑ってくれたら嬉しいし、誰かが笑わせてくれるのも嬉しい。それに気がついたのは、20歳になってからのことで、「おっせー!」って思ってるけど、でもよかった。わたしは、今のわたしが好きだ。「今のままでいいんだよー」って、あのとき励ましてくれた人、ありがとう。でも、「今のままでいいんだよー」のときより、今(2017年7月16日)のわたしのほうが、好きになりました。

 マイナスの感情を、アイデンティティとしたくない。しょーもなっ。て、今は思えるようになった。そんなの関係ねえ、なんだよなー。人が持つ魅力について、前までは勘違いしてた。(もう、ファッションメンヘラなんて、論外ですよ。不謹慎とか以前に、メンヘラをファッションとして肯定してるセンスがどうかしてると思うんですけど。ファッションってビジュアルだけじゃないっしょ。ダサい。まー、わたしは不謹慎だなとか、ないものねだりだなとか思ってます。 )

 わたしはかつて「死にたい」ばっかの毎日だったから、偉そうにこんなこと言う資格ねえな。ま、ブログのサブタイトルが『戒め』だし、いいかー。なんかかなり攻撃的だけど、嘆いてる人に、刺さるなら、刺さればいいと思っている。もう、戒めじゃないじゃん。

 なあ、もう言い訳すんの、やめにしようぜ。見たくないものが多すぎるから、わたしは目をつむることにした。それだけだよ。

 

嘆く歌

 

ぼくを刺す針のような優しさで痛いと思えることの幸せ

 

大人って、そういうことなのかもしれないなっと思いました。

メルト・エイジ2

 幾度となく今世紀最大の事件を更新し続けて、今日に至る。

 東京は地上60階から地下40メートルまで、余すところなく忙しい。足の裏で、うごめく人の波を感じるのは難しい。コンクリートは厚い。触ると熱い。

 今世紀最大に暑い日だった。

 「虎ノ門って、漢字で書くといかついのに、ひらがなで書くとかわいい。」

 「とらのもん」

 銀座線は夏の方向に向かって走る。人々は、今夜あたらしく刻まれるであろう今世紀最大の事件について、期待していないふりをする。

「風邪ひいた。のど飴舐めていい?」

「馬鹿は風邪ひかないってあれ、馬鹿は風邪ひいても気づきもしないって意味らしいよ。」

  本当に、地下鉄はわたしたちを目的地まで運んでくれるの?窓の外はいつまでも真っ暗なのに、わたしたちはいったい何を信じているの?わたしたちが微かに期待している今世紀最大の事件がいつまでたっても訪れなくて、このまま夏が終わってしまったって、誰も責任をとってくれないんだよ。確かなのは、自分の足で歩くことだけれど、それでもやっぱり、歩き続けると疲れちゃうのが、嫌になる。

「好きな人の前で、龍角散なんか舐めないから。」

「知ってるよ。」

  花火が上がったら、汚い言葉を叫ぼうと思っていた。だけどわたしはずっと上を向いたまま、浅草の濁った空を見ていた。足元を照らす花火より、隣にいる人の横顔を照らす花火のほうが、好きだと思った。

 メルト・エイジ。いつか消えて無くなる、若き日々。

 

  

 

 

 

 

メルト・エイジ

 わたしがオレンジ味の飴玉を食べるのだと思っていた。

「飴、あげる。」

「わたしが選んでもいいの?じゃあ、こっちもらうね」

 その日の帰り道、わたしは水色の飴玉を噛み砕きながら帰った。ソーダ味だった。ラムネ味だったかもしれない。とにかく、水色の味がした。彼女のオレンジ色の飴玉は、疑いも迷いも含まない寸分の狂いも無く精密なオレンジ味だろう。

 ばりばりと飴玉が砕けていく音が、わたしの内側から聞こえる。わたしが聞いているばりばりと、ほかの人が聞いているばりばりは、違う。まったく違う。わたしのばりばりは、わたしだけのもので、こんなに素晴らしい現代でもシェアできないし拡散もできない。わたしがわたしであることを確かめてうなずくためには、飴玉を壊して音を鳴らす以外に術がなかった。水色の味を飲み込んだら、破片が喉に刺さって、久々に母に怒られたときのような気持ちになった。

 飴玉の溶けるスピードは、その人の心の余裕に比例しているような気がする。人の心について語る心自体が薄っぺらくてなんだか笑ってしまうけれど、他の内臓を圧迫しないためにも、心は薄っぺらいほうがよいのかもしれない。(心は形ある臓器だと、だれが言った?)

 彼女の飴玉は、彼女の口の中にいる間、ずっときれいな飴玉だった。まるいものはきれいだ。だれも傷つけないから。だれも、なにも、刺したりはしないから。彼女は最後の一瞬まで球体を保ったままで、オレンジ味を体の中の一部とした。それは、とても健康的なことのように思えた。彼女の心の余裕という想像上の空間に、ゆっくりとオレンジ色が染みこんでいったところを想像した。

 飴なんて、食べなくてもよいのだ。生きるために必要なことだけを選ぶなら、飴は世界から消えてしまう。飴だけじゃない。水以外のほとんどが、消えてしまう。コーヒーゼリーは飴よりも早く消えるだろう。そんな理屈で、音楽や絵や本や映画やおしゃれな服やこれを書いているわたしやこれを読んでくれているかもしれない君たちのすべてがいつか消えてしまうのなら、「わたしたちも、飴玉だった」と笑って世界からログアウトしよう。まるくてきれいな飴玉であったと、馬鹿みたいに信じたままで。

 飴玉は、演劇の舞台の千秋楽でもらった。演者が客席に投げたそれを、わたしはふたつ掴んだ。その飴玉が、また別の物語を生んだ。作り話からこぼれた飴玉が、現実の世界で事実を作ったのだ。今はもう溶けてしまった飴玉が、その境界線をじんわりとにじませてしまった。

 ほんとうに、ゲームオーバーみたいな帰り道だった。だれかが急にわたしの10月31日をシャットダウンしたように、すべてがある瞬間でぷっつり途切れた。ゲームがリセットされて再開したのは、その翌年の4月のことだ。

 水色の飴玉を選ぶ彼女は、18歳の夏の美術室にいて、それはやっぱりどうしても現在には連れてくることのできない人なのだった。いや、そんな言い方はおかしい。連れてくる必要の無い人だ。そう思っていた。

 わたしだけが、18歳の夏の美術室から出られずにいた。出口はすぐそこにあるのに、いつまでもシャボン玉で溢れた去年の夏の美術室に閉じこもっていた。そういえば、あの日にふたりだけでたくさん飛ばしたシャボン玉も、まるくてきれいだった。机や黒板や石膏像やイーゼルにぶつかって消えていくシャボン玉のように、潔くはなれなかった。気がつけば、わたしが消えてしまわないために安全な道を選ぶことだけがずいぶんうまくなった。

 (子供だった。幼稚だった。幼かった。若かった。青かった。どれが、ふさわしいだろう。)

 髪の毛を切った。髪の毛を染めた。制服を脱いだ。新しい友達ができた。そのすべてが、たいしたことないとわかるまでに、かなり時間がかかった。オレンジ色の飴玉を選んだ彼女は、水色の飴玉を選ぶ彼女も18歳の夏の美術室から連れてきて、新しい景色を見せたし、水色じゃない飴の味を教えていた。

 大人になるためには、子供で幼稚で幼くて若くて青い時間が必要だ。

 オレンジ色の飴玉も、水色の飴玉も、どちらもまるくてきれいだったことを、今さらになって思い出した。偏った憧れは、ばりばりと音を立てて壊れた。わたしが噛み砕いた音。

 まるくてきれいな飴玉を含んだ彼女の頬と、膨らむことはなかったわたしの頬が、対称的だった。ふたりならんで飴玉を食べたわけではないけれど、きっとそうだ。西武新宿線のかわいらしい黄色の車輌が、暗闇の中でしずかに光る夜に、涙を乾かすにはすこし足りない、もどかしい風がわたしの頬だけをからかうように触っていった日の、話。

 

 

 

 ここに記したすべての思い出も、連れて行こう。