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遅れてきても又と無い春

 北国に遅れて来た春を、都会の人は「もう飽きた」と言う。

 さみしい。

 君の見た春と、わたしの見ている春は、違う。

 ここからもっと北へ進んだところに、春を待ちわびている、たくさんの人がいる。

 優劣なんてつけられないくらい、すべての人の春は、尊い

 と、わたしは信じていたい。ってだけなのだけど。

 

 

 

ハッカ味の汗

根拠とするにはあまりにも脆い思い出。

 

のど飴の効果くらいに頼りない今日の花火を信じてみたい

爪が伸びゆくそのスピードで

誰にも読まれない言葉の行列がここに存在している。

大衆性に逆らうことは、一見賢いようで実は幼稚。せめて、そこが、さんざん彷徨った挙句に流れ着いた先であってくれ。

流動のスピードや圧や質にはすべて意味がある。意味を持たないものなんて、まさしく無意味だ。

たとえその意味が言語化できないとしても、言語化以外の表現の方法が許されていることの理由は?すべて言葉で伝えられるなら、今すぐに小説家にでもなればいい。そこまで拘るのなら、音楽も絵画もファッションも写真もすべて捨てることだ。

わたしはここに意味のない言葉など一言も置いてはいない。

ただ、この流動に置いてけぼりを食らっているのは誰なのかということは未だ知らない。

 

 

スプーン、レモン、洋燈

 地下一階の憂鬱、沈黙の色は単調ではなくて濃淡があることを知った、渋谷に誰もいないような気がした数日間、改札の前で項垂れた夜とか、不味いカレーライス、誰かの吐いた唾がやけにきらきらして、枯れた紫陽花が暗喩していたわたしの未来、心地悪いバスの揺れ方、官能的な鉄骨の柱の下で、あああの匂いがある、もう二度と、死にたいなんて口が裂けても言えないや。完成した映画を、完成した小説を、飾りとなってしまったギターを、録画していたバラエティ番組を、もう使えないコンタクトレンズを、嘘ばっかりの皮膚を。裏切った先の、裏切られた先の、幸福が逆転していればいい。薬になれなかったわたしのための薬、開き直るのはやめにしたい。紙で指を切った、もう居場所がないんです、だからずっと移動を続けている。ねえ、とわたしは誰に向かって言っているのだろう。指輪の内側にこもる熱、せめて向かい合ってコーヒーを飲むときだけは。

 

 

エフ

 日常は、理想とする正方形とは対極にあり、もっと歪な形をしていて、その輪郭は直線でもなければ、際限すらない。彩度や明度を指先で調節することも不可能で、その瞳が受け入れた光の量のみによって、色彩を持つ。見たままの世界の全てが美しいとは限らないが、きっと死ぬ間際には "美しくない" ものの一切は、"思い出" から排除されていく仕組みなんだろう。少なくとも、わたしはそうであると思う。それなのに、生きている今、必死になって "美しい" 日常だけを切り取るということに、路地裏のような湿っぽい虚しさを感じたりしている。そこに、競争を見出そうとするものなら、虚しさは、やがて無駄なものでありながらも永遠に循環していくだろう。

 印象派と括られる絵画や、江ノ島で借りたフィルムカメラ、わたしの中にある光についての概念を揺さぶってきた、崇高な出来事たちのことを思い出した。

 自分を肯定するための策として必要不可欠なものが手に入らぬ気持ちについては、水の中で、切り花を手入れするときのように、少しずつ鋏を入れていく。意図的に枯らすことよりも、そうして生かしておくほうが、きっといい。これは、後味は清々しいほうがいいことと同じだ。

 

 

燃焼しきれなかった感情の灰で花が育ったりしないかと考えている

 永遠などという言葉は死んでから言え。身の丈に合ったダサいネックレスや指輪を与えあって満足することが永遠の意味だっただろうか。

 

 …他人の幼稚な恋愛にはまるで興味がないが、そのようなわたしの恋愛には誰も興味を示さないことは言うに及ばない。が、構わずわたしは話を続ける。

 男女が肉体的な関係を伴わないで愛を維持していけるかと言えば、ほぼ不可能だろう。本来ならば、セックスは疚しい、後ろめたい行為ではないはずなのに。それ抜きに、尊敬や憧れで構成された精神的な愛にありつけることができたなら、もっとも理想的だとさえ思うが、果たしてそれは、恋愛と呼ぶに相応しいのか、とか…。

「バイなんじゃないのか?」

と言われたことがある。もちろん男の人を好きになったことは何度かあるけれど、歳をとるにつれて、こんな余計な感情ばかりが蔦のごとく固着して、終いには視界ごとわたしから奪ってしまうのだった。

 ただ単純に、優しいから、足が速いから、おもしろいから、頭が良いから、そんな理由で誰かを好きになれたら。そんなかつての自分が白だとするならば、わたしが徐々に汚れてきてしまっていることは明らかだ。

  友人からもらった手紙に、「◯◯ちゃんに対する気持ちは、尊敬とも、憧れとも、恋愛とも違う、〜…」と書かれていたのを読んだときは、かなりショックを受けた。わたしは一方的に、その全てを含む感情を、彼女に対して抱いていたからだ。それは、わたしにとってはある種の失恋だった。

 すっかり、境界線を見失ってしまっているようだ。いや、境界線なんて存在するのかどうかすら定かではない。 わたしは、一日のうちで夕方や朝方がもっとも好きだ。常に曖昧な変化し続ける時間。あの空の色は綺麗だ。

 ただ、少なくとも、わたしが男性に求めてしまう感情は幼稚であり、わたしがもっとも軽蔑する類のものだろう。むしろただの依存心でしかなく、まったく健全でない。わたしがひとりで立つためには、やはりひとりでいるほかにない。そんなことを考えている。

 そのために、女性に対して、精神的な、などと下手な言い訳をしてまで、無理やりにでも恋愛感情を見出そうとしているのが、客観的に見るととても醜くて、どうしようもないという一番どうしようもない結論に行き着く。でも、本当に、女性を好きだとも思う。

 

 わたしには、チープな永遠すら程遠い。

安泰

 シルバーの自転車、時間が足りないのかそれともわたしが欲張りなのか、夕方は可愛いコンビニの店員が22時になると実家暮らしの男に変わって、実家で使っている茶碗を割ってみたいと思うがそれすらできず、ゴミ捨て場の前でするには勿体無い話、スーツと猫背、葬式と笑顔、自分の中の左側(君から見たら右)、安物の時計の秒針、旧友、程よい眠気、影に気づいて光源を探す、他人の着信音に振り向いて、明日は変われるかもしれないと期待して入った布団は冷たい。人一倍戦争を恐れているくせになぜだ、跨線橋から見下ろす線路には15両の電車が常に、夕陽が綺麗な日もそういえば、あったな。偶然を装う電車、会いたい人が不在の渋谷、108円のミックスサラダ、できるだけ嘘はつきたくないんだ、早く寝ないと健全な朝がやって来ない、精神的な愛のために不必要なものとは?「綺麗事を言う人が嫌い」と言う、大人になる前に気がつくと、いいね。怠いと言う人が救う命、フローリングであみだくじ、小学3年生の頃から続けている天体観測、初めてさそり座を見たのは19歳の夏だった、知らない街を一人で歩けば報われる感情とは何だろう。生活は炭酸水の色と味をしている、紙で指を切ると血が出るんだって、拒絶していたのはこちらだった、どうして、あの夜行バスは明日の朝には東京にいる、わたしが5秒後にこの角を曲がれば衝突する、黄色い自転車。